鹿になった少年

山彦は律義にも反復してみせた。そのため田中祐一は、佐藤昇の悲鳴を二度聴くことができた。これは僥倖というものではないか。

誰かを亡き者にする。そのうえでのうのうと生きる。それは簡単なミッションではない。しかし田中はそれをやってのけたと確信していた。

「相手はだれだっていい。恋愛の局面において、そういいながら選り好みするやつがいるが、おれは同タイプではない。本当にだれだっていいのだ。人物というのは、人と物でできているが、おれにとって相手は物でしかない。人としての側面に興味はない」

そう嘯く田中だか、しかし若さゆえの失望経験不足は否めず、他者への興味を未だ完全払拭するにはほど遠く、そのため、競技用とおぼしきタイヤも骨組みも細いがインテンシティの高そうなスタイリッシュな自転車で、アスファルト舗装されてはいるが、ところどころひび割れた、車一台がやっと通行できるほどの幅しかない山道を駆け上がってくる佐藤を見て、ごく自然に、トライアスロンの選手だろうか、との思いが浮上した。特に感興がわくようなことはなかったが。

伸縮自在のぴちぴちの黒のスパッツが密着した、細い自転車とは対照的な発達した太ももは、夜気をふんだんに含んだ大気から精製された彫刻のようだった。佐藤のスパッツにリソースを割いたがために、夜は黒さを失い大気は白みはじめていた。

夜が吸い込まれていく。佐藤は恐らく家を出た時点では下半身に何も身に着けていないか、あるいは無色透明の膜を貼り付かせた状態だったことだろう。夜は自身の色が薄れることも厭わず、一か所に凝集した。

この無色透明の膜を開発した、サイエンスアーティスト・立花一宏は、これにカメレオンという名を与えた。カメレオンは歯磨き粉や軟膏のようにチューブに入っており手軽に持ち運べる。森での隠密行動には欠かせない必須アイテムだ。ゲリラは裸になって全身にカメレオンを塗りたくる。すると一瞬にして彼あるいは彼女は極めて精度の高い迷彩柄に覆われる。

GPS機能を警戒してスマートフォンを持ってこなかったため、退屈まぎれにそんな幻影を抱きながら、田中は待った。人間の素晴らしい能力のひとつは、無意識に様々なことができることだ。突然目の前に何かが出てきたら、意識するより前に避けようとする。中にはぶつかってその何かが何であるか判らないまま破壊しようとする人もいるが、そういう人は早死にするので稀だ。

佐藤と田中の邂逅は一瞬だった。マジシャンは右手で秘密動作をする際、ミスディレクションといわれるテクニックを用いて、観客の注目を右手以外のところに向けさせる。田中はマジシャンではなく地元在住の十六歳の男子高校生だったが、佐藤を崖から転落させるために、佐藤の前にいきなり現れることで、佐藤に身近に迫る危険な崖の存在を忘れさせた。

白装束の田中の出現に、佐藤は咄嗟にハンドルを切った。佐藤はまず無意識に田中を避け、それからはっきりと田中を見て、幽霊か何かと思ったのか、さらに田中から遠ざかろうとした。遠ざかろうとする佐藤の試みは成功したが、田中が的確なポジショニングで動線を限定し続けたため、導かれるように崖から転落することとなった。「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。」by夏目漱石

人間の可聴域外の波動をふんだんに含んだ稲妻が、秋冷えの大気を斬り裂いた。佐藤の悲鳴に、山彦が呼応した。断末魔の叫びを、田中は二度聴くことができた。

山彦は、いつでも決して裏切ることのない共鳴者だった。反対意見を言うことも、諭したり諌めたり蔑んだりすることもなかった。いつも一緒に怒ってくれる友だった。山彦は心理学でいうところのミラーリングを徹底することで、田中の信頼を勝ち得ていた。

山彦がそのような心理学のテクニックを使っているとはつゆ知らず、田中は山彦をただ不思議な存在だと思っていた。友でありながら、田中は一度もその姿を目にしたことがなかったのだ。遠くの親戚より近くの他人というが、その逆で、近くの親戚より遠くの他人というのが、田中にとっての山彦だった。それは、山彦が人類の叡智ともいえる諺を覆す存在であることをも意味していた。

夜勤の母が戻る前の自宅は、ひっそりとしていた。徹夜で疲れ切った身体をベッドに横たえ目を閉じた田中は、未来を予測する。今回の件を受けて、行政機関は山道の佐藤が転落した辺りの崖側にガードレールを設置し、山側には鹿出没注意の看板を立てることになるだろう。人一人の命が失われて何もしないわけにはいかないし、一週間前に同じ場所で自動車と鹿の衝突事故があり、今回の件も鹿の仕業だと考えられるだろうと予測したのだ。人間の仕業だと考えるより鹿の仕業だと考えるほうが気楽だからだ。

完全犯罪は、それが犯罪だと認識されないことで成功する。田中の予測通り、佐藤の死は地元警察によって事故とみなされ、殺人事件として捜査されることはなかった。殺人事件として捜査された場合、捜査の手がいつ届くか気になり心穏やかに過ごすことは困難となる。これでは逮捕される如何にかかわらず、成功とはいえないのだ。

人間中心主義的に解釈すれば、殺人の代償とも恩寵ともとらえられるが、実際はコンピュータプログラムのバグのようなものだった。

夜勤を終え、勤務先の総合病院から戻った田中美咲は、自宅に漂う獣臭に鼻をおさえ、眉をしかめた。祐一が捨て猫でも拾ってきたのだろうか、と訝りながら、取るものもとりあえず、廊下の突き当たり、閉じられた扉の向こうにいるはずの息子に声をかけた。返事はなかったが、開けるよと予告してドアノブに手をかけると、扉はあっさりと開かれた。美咲は息子のベッドですやすやと眠る鹿を見つけた。

十月二十日土曜日早朝、私が住む関東近縁の田舎町で、トライアスロン選手が事故死し、民家に鹿が出現し、鹿が出現した民家に住む男子高校生が行方不明になった。これらの出来事は、それぞれ独立したものなのか、それとも一連のものなのか。

鹿が出現した。実際そのようにしか考えられなかった。鹿が出現した民家は玄関も勝手口も窓も施錠されており、侵入経路が不明だった。田中祐一が導いたのだとしても、いかにして手懐けたのか。また祐一が所持する家鍵は、部屋に残されたままだった。祐一はいかにして家を抜け出し、どこに消えたのか。

スマートフォンも部屋に残されたままで、祐一の行方は、杳として知れなかった。

動物園に保護された鹿は、そこにぼんやりとした懐かしさのようなものを覚えた。かつて誰かとここに来たことがあるような気がしたのだ。それは記憶というより、暖かな陽だまりのような感触だった。私が電話で問い合わせたところ、保護された鹿は雌だということだった。人間の少年が雌鹿にトランスフォームする。あり得ないことではない。

祐一にとり憑いていた悪霊は、祐一が鹿に変身したことで見切りをつけ、早々に祐一から抜け出していた。

「相手はだれだっていい。恋愛の局面において、そういいながら選り好みするやつがいるが、おれは同タイプではない。本当にだれだっていいのだ。人物というのは、人と物でできているが、おれにとって相手は物でしかない。人としての側面に興味はない」

そう嘯く悪霊だが、しかし物であればなんだっていいいというわけではなく、物としてのスペックはより高いほうが好ましいし、人としての側面にしても、干渉しやすいほうが好ましいのだった。

新たな相手を求めて悪霊は旅に出た。